和歌山は、おもしろい。歴史を探ると奈良や京都といった都には見られない、時には恭順、時には反骨、したたかに生きた人々の姿が垣間見られる。そういうところである。ある面、出雲や吉備に通じるものがあるが、そこは南国、おおらかな気質も大いに見られ、おもしろい。歴史はいつか伝説になる。伝説はいつか神話になる。そして忘れられる。そんな忘却の彼方にあった真実を掘り起こしていく作業、そんなことを思い描く今日この頃です。「見えないけれど、確かにおる。」何か、水木しげるさんが言っていたフレーズに繋がるようです。歴史学者には、邪道と言われるでしょうが、いいのです。歴史学も民俗学も考古学も文化人類学も、仏教も神道も修験道も昔は全部受け入れていたのです。まじないでもお札でも何でも「効けばいいんですよ。」と、今日見た新日本紀行のある場面で言っていました。それが、日本の歴史だった。神仏習合こそ日本人にあった宗教観でしょう。そんな観点から紀伊路の歴史を掘り起こしたいきたいと考えています。


  藤白坂の10丁にあたる地蔵様と石碑です。全部で17丁ある中で、一番のお気に入りです。

 

藤白神社から、小さな鳥居をくぐり藤白坂へと向かう。すぐに「紫川」という案内板があるが、今は薄汚れたコンクリートの溝に過ぎない。有間皇子の墓と歌を刻んだ碑が建っている。その横に、見落としそうな小さなお地蔵様があり、「一丁」という目印がある。熊野古道の目印である。ここから「十七丁」を目指して登って行く。コンクリートの農道が、やけに急な傾斜で、ここで無理するとばててしまうから気をつけよう。「4丁」のお地蔵様の所からいよいよ山道へ入っていく。「5丁」と「6丁」の間に最初のよい眺めが現れる。しかし、まだまだ低い。「7丁」のお地蔵様が、17ある中で一番豪華で色彩豊かである。ちょっと一息ついて、無事に頂上まで頑張れるようにお祈りするのがよいかも。そして「10丁」のお地蔵様が上の写真である。最近、歌詞が少し薄汚れたのがやや残念。ここを過ぎれば、次の目標は「14丁」。ここは、名勝の「筆捨て松」と「硯石」がある。ちょっと疲れたのでここで一休み。ここからが終盤。急ぎすぎるとすぐ疲れるから注意したい。そうそう、「12丁」は見落としがちになるからね。最後の「17丁」まできたらあと少し。20メートルも行かないうちに、不意に山道が終わる。そこにあるお地蔵様に感謝の祈りを捧げよう。民家が現れ、見上げると立派な「宝篋印塔」があるので見落とさないように。前方に「地蔵峯寺」があるからお参りしておこう。そして、熊野古道随一の絶景と言われる「御所の芝」へ向かい、上皇や天皇も眺めた景色を楽しもう。

 

紀伊路へようこそ

紀伊国の夜明け

 このおもしろい地図は、歴史地理学の権威である日下雅義氏の作成したものです。奈良・平安時代の紀の川の河口部がわかりやすく描かれたすばらしいものです。歴史は、その当時の地形を考慮に入れなければ全くわからないことが多くあるのです。

 例えば、有名な神武東征伝説の中で、船で九州方面(吉備国)から瀬戸内海を通り、浪速を経て白肩津というところで当地の勢力(ナガスネヒコ)と戦い神武の兄の五瀬命(イツセノミコト)が矢で射られ負傷する。この地が現在の日下の地で奈良との県境です。つまり、その時代、生駒山系の近くまで船で行ける海または湖(河内湖)であったという事実を知らなければ、単なるおとぎ話になってしまいます。同じように、紀伊国の海岸付近で、負傷した五瀬命は力尽き亡くなります。その亡骸は、現在の竈山神社に葬られ、その後、一行は船で熊野方面へ出向いたという話です。これも、現在海からかなり内陸部にある竈山神社までわざわざ陸路を通って(紀伊にも土着の強い勢力がいて危険)、また兄を葬ったあと、海へ引き返したのではなく、上の地形から推測してみると、神武神話は奈良時代よりおそらく300年~400年前と考えると、名草山の北東にある竈山神社付近は、当時は紀の川(今と流れ・河口部が異なる)の河口付近か海辺と考えられます。このように、当時の地形を想定して歴史を見ることがどれだけ大切かということがわかるのです。そう考えると、神武東征の神話もあながち、荒唐無稽なものではなく、事実である部分も大いにあると言えるのかもしれません。 

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紀伊の古代から中世

 「あさもよし」は、紀伊の枕詞。万葉の時代によく使われた言葉です。古代、『南海道』とよばれる非常に大事な道が紀伊国を貫いていた。奈良から紀の川の水運を使い物資や人を運ぶ。紀伊湊で瀬戸内海へと。写真1は、飛び越え石。奈良の都から遠く紀伊国に入る国境でした。小川の右が大和で、左は紀伊なのです。ほんの一またぎですが、都人は遙か遠い遠い異国に足を踏み入れた心持ちだったのでしょう。この近辺の「真土山」が、その心情を示すかのように万葉集に出てきます。写真2は、紀伊国分寺跡です。国府の近くに国分寺があったことから考えると、南海道が奈良時代、やはり重要な役目をしていたことがわかります。そして西の端、海への出口が加太駅です。写真3・4・5は、和歌山市のいわゆる三社詣での三神社です。伊太祁曽神社・竈山神社・日前國懸神宮(日前宮)がそれにあたります。鳥居の雰囲気で竃山と日前宮(紀伊一宮)は、よく似ていることに気がつかれるでしょう。簡単に言うと、伊太祁曽神社(紀伊一宮)が出雲系。それに対して日前宮と竃山(神武天皇の兄を祀る)は天孫系ということに分類できます。神武神話と繋がるものです。伊太祁曽神社(主祭神は、スサノオの息子である五十猛命)は、今は山東の田舎にありますが、元は日前宮の場所にあったと伝わっています。伊太祁曽神社と深いつながりがあるのは、大国主神社(写真6)です。これは、出雲神話にその関係が出てきます。このように、紀伊の古代は、出雲神話と大和神話に深く関わっていた土地なのです。

 写真7の「有間皇子」は、古代飛鳥時代の人ですが、その悲劇が人々によく知られるようになったのは、中世熊野詣でが盛んになり、京都から続く紀伊路(熊野古道)が整備された以降なのではないでしょうか。

 古代の丹生都比売神社(写真8)・高野山(写真9)・根来寺(写真10)・宝来山神社(写真11)・隅田八幡神社(写真12)が盛んに歴史の舞台に登場するのも中世です。それぞれ、中世の荘園と深い関係があり、それぞれが荘園領主ということにもなります。その荘園の取り合い(土地争い)が、度々歴史に登場してきます。有名な「笠田荘園絵図」(荘園の範囲を表した絵図)があるのは、宝来山神社なのです。高野山の地主神が丹生都比売神社(紀伊一宮)、根来寺の地主神が伊太祁曽神社というように、中世の勢力争いに有力な寺と神社が絡み合っているのです。中世の紀伊国は「宗教王国」と言われる所以です。

 

 

宗教王国紀伊国

   「わたしの決意」

 

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「驚きと謎の遺物」 

鉄砲の弾痕(根来寺)  謎の石碑(丹生都比売神社)

天狗の手形(福勝寺)  高野山中門四天王(胸に注目)

飛越石(実は国境) 伊勢までどれだけ!と思う道標

和歌山城唯一の羽の刻印(見つけられたらラッキー)

    「人物画像鏡」(国宝)隅田八幡神社

 

 教科書にも載っている有名で貴重な銅鏡がこの神社にありました。48文字が書かれていて、日本で最古級の文字入り銅鏡だと言われています。時代は443年説と503年説に別れています。「癸未年」が示す年代が定かでないからです。十干十二支で昔は年を表していたので、60年の隔たりが出るのです。しかし、何故この神社に銅鏡があったかは謎です。

 「目に鮮やかな社殿」


    三船神社・丹生都比売神社は、特に社殿が色鮮やかです。丹生都比売という女性の神様を祀っていることと関係があるように思われます。鞆渕八幡は、急な階段と坂道を登り落ち着いた佇まいですね。宝来山は、春日造りのしっとりした本殿です。仁義の立神神社は、ミニチュア天地創造という印象が突然脳裏に浮かんだものです。




古人(いにしえびと)の道

 道は、歴史そのもの。人が行き交い道になる。日本は、島国そして山国。海の道・川の道・湖の道・平野の道・山道、時代とともに道は出来、あるものは役目を終わり消えていった。また、改良されていった。そんな道に、私は魅力を感じる。そして、そこを行き交った人々の思いや息吹を感じてみたい。

紀伊国の古道

 和歌山で最も有名な古道は、熊野古道です。世界遺産にも認定された全国的にも有名な古道です。かつて平安時代後期から鎌倉時代前期にかけ、四人の上皇が熱病にかかったかのように都(京都)から遠い熊野の地を目指して歩き続けました。四人の上皇とは、白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇・後鳥羽上皇です。何百人ものお供をつれ、次第に熊野への道が整備され途中に九十九王子ともいわれる

参拝所が出来たと言われます。その中でも五体王子とよばれたものが参拝・宿泊も兼ねた大がかりなものだったそうです。その入口が

藤白神社なのです。院の熱病が過ぎ去り(有名な承久の乱が関係)、その後は熊野の御師(おし)と案内役の先達達の努力で、全国の武士そして庶民が熊野を目指しました。いわゆる「蟻の熊野参り(詣)」と呼ばれる現象です。

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熊野古道(藤白坂)

 藤白坂。藤白峠を目指し、ここからが熊野古道の本番が始まります。紀伊山地へと分け入る田辺を目指し、小手ならしの峠坂の入口です。では、藤白神社から藤白峠までの古道を歩いてみましょう。

 

 藤白神社~御所の芝

 御所の芝跡の案内板の一部です。それによると、白河上皇の熊野詣の際、ここが行宮(あんぐう)所になったので御所の芝と呼ばれたそうです。ここからの景色はすばらしく、この絵でも建物の屋根の向こうにかすかに和歌浦らしき陸陰が見えます。後鳥羽上皇に付き従った藤原定家は、「遙かなる海を眺望して興無きにあらず」と感想を述べています。また、江戸期の紀伊名所図会で、「熊野路第一の美景なり」と書かれているそうです。

藤白神社周辺の万葉集

高野山への道(町石道)

南海高野線九度山駅

 今、空前の真田ブーム。ここ九度山駅もかわいく生まれ変わりました。真田庵・真田ミュージアムが人気を呼んでいます。さて

世界遺産の町石道(山下の慈尊院から高野山へ続く約20㎞あまりの道)に登って行くならここで下車。歩いて25分程度で慈尊院に着きます。空海の母親がいたお寺で、息子の空海は月に九度山から母に会いに下りてきたという伝説から九度山と付けられたといいます。その寺が町石道登りのスタートで、180町石があります。下りる道を行くなら、高野線の終点「高野山駅」まで行き、バスで「千手院橋」下車。すぐ近くの壇上伽藍まで歩いていきます。中門の近くに慈尊院側1町石があります。大門目指して

町石を辿っていきましょう。

町石道

 信仰の道、町石道。空海が元々は、道しるべとして立てた木製の卒塔婆が始まりと言われています。その後、鎌倉時代に御家人達が盛んに石製の町石道を寄進したそうです。北条時宗や安達泰盛などが有名です。文永年間がよく見かけるのですが、文永と言えば蒙古襲来(元寇)で知られている元号です。ちなみに、最初にモンゴル帝国の国書が大宰府にもたらされたのが、文永5年(1268)で、文永の役が文永11年(1274年)です。外敵からの日本侵略の気運から文永年間に高野山へ多くの寄進があったのではないかと考えています。神仏にすがり外敵を追い払ってもらうということでしょうね。

壇上伽藍から矢立(60町石)

    矢立(60丁)から二つ鳥居(120丁)

 二つ鳥居から慈尊院(180町石ゴール)

丹生都比売神社

 丹生都比売神社。主祭神は丹生都比売(にゅうつひめ)で、あと息子とも夫とも言われる高野明神(狩り場明神)。彼は、二匹の犬を連れ、空海を高野の山へ案内したと言われている。さらに、大食都比売(おおげつひめ)、市杵島比売(いちきしまひめ)の4柱の神様を祀る、紀伊一宮の1つである。紀伊国は、3つの一宮があるのです。

 

丹生都比売神社から二つ鳥居

物語(万葉人との出会い)

万葉の里(真土山・飛び越え石)。大和の国(右側)から紀伊の国(左側)、この一またぎが旅と物語の始まり。

万葉集「真土山」

・あさもよし 紀伊人羨しも 真土山

                 行き来と見らむ 紀伊人羨しも

・あさもよし 紀伊へ行く君が 真土山

                 越ゆらむ今日ぞ 雨な降りそね

・真土山 夕越え行きて 廬前の

                 角太川原に ひとりかも寝む

・いで我が駒 早く行きこそ 真土山

                 待つらむ妹を 行きて早見む

・橡の 衣解き洗ひ 真土山

                 本つ人には なほしかずけり    

都からの旅人は、飛び越え石をまたぎ、真土山を越えどこへ向かったのでしょうね。紀ノ川沿いに大和街道(古代の南海道)を西へ歩いて行ったのです。

妹背山

 紀の川を挟んで、右が妹山(124m)・左が背の山(168m)。紀の川の中州の島は船岡山(通称へび島)で、厳島神社が鎮座しています。万葉集で妹背山を詠んだ詩は、全部で15もあるそうです。写真左上の背山のあたりが、南海道だったそうです。この何に変哲もないように今は見える2つの小山に万葉人は想いを込めたのでしょうね。

・後れ居て 恋ひつつあらずば 紀伊の国の

                              妹背乃山に あらましものを

・麻衣 着ればなつかし 紀伊の国の

                              妹背之山に 麻蒔く我妹(わがも)

・大穴道(おほあなみち) 少御神の(すくなみかみ) 作らしし 

                                            妹勢能山を 見らくしよしの

 万葉人は、川を挟んで寄り添うような2つの山に、自分(背の山)と都に残してきた妻または恋人(妹山)を結びつけ、想いを詩に詠んだのでしょう。万葉の時代の一端を感じさせてくれますね。

和歌浦

 万葉の地、和歌浦。都人の憧れの場所でした。聖武天皇も数々の上皇も貴族も小野小町も、いそいそと訪れたことでしょう。上の写真は、不老橋・玉津島神社・塩竈神社そして遠景に名草山と紀三井寺が見えます。


万葉集

若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み

       葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る 

 最も有名な作品です。山部赤人の歌で、和歌浦・片男波という

地名が入っていてます。でも、次のようなすばらしい歌も知って欲しいですね。藤原卿・作となっています。藤原の誰かはわかりません。

和歌の浦に 白波たちて 沖つ風

       寒き暮は 倭(やまと)し思ほゆ  

紀の国の 雜賀の浦に 出で見れば

       海人の燈火 波の間ゆ見ゆ

作者不詳

若の浦に 袖さへ濡れて 忘れ貝

       拾へど妹は 忘らえなくに    

 どれも旅情を醸し出す作品です。和歌浦の風景は、都人にとって何物にも代えがたいものであり、それ故に都に残してきた思い人のことが頭によぎったのでしょう。

※ 感想・連絡等は、次のメール

  アドレスへお願いします。

 koji.onomiti610@gmail.com



万葉の地・和歌浦

 和歌浦。和歌山県という県名の由来になった風光明媚で古代の都人(奈良・京都)の憧れの土地。和歌山随一の名勝です。残念ながら、すばらしい財産を我々は、うまく活用できていないのか以前の様な活況はありません。歴史・景観を保存しながらこれから考えていかなければならないのです。

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神話は伝説に、伝説はいつしか歴史となる

(映画「ロードオブザリング」より」

不思議な伝説(伝承)

伝説

   名草戸畔(なぐさとべ)

       『日本書紀』第3巻「神武天皇」の項

     「六月(みなづき)の乙未(きのとのひつじ)の朔丁巳(ついたちひのとのみのひ)に、軍(みいくさ)、名草邑(なぐさのむら)に至る。     

      即ち名草戸畔(なぐさとべ)という者を誅(ころ)す。」

 

    名草戸畔に関する記述は、たったこれだけ。神武軍が九州方面から倭(やまと)をめざし進軍中、当時和歌山

  の地域の女族長であった、名草戸畔とはどういう人物だったのだろう。卑弥呼のように神の声を聞き名草の人々を

  統治していたのだろうか。あまりにも史料が残っていない。

 

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