宗教王国紀伊国

   「わたしの決意」

 

 葵のご紋で有名な御三家。江戸時代の紀伊国は徳川御三家でした。徳川吉宗(暴れん坊将軍で有名)も紀州藩の殿様だった。江戸時代を代表する天下の紀州藩。そこに暮らす民衆もいつしか紀州藩の民として鼻も少しは高くなっていたかもしれませんね。もちろんこれは、悪いわけではありませんが、御三家のご威光の元、民衆もそれに酔いしれてしまったのではないでしょうか。それ以前の紀伊国は、権威に与しない、独自の道をゆく(我は我)、進取の気質にとみ、またなにものをも受け入れるおおらかな風土があふれていたのです。権力者からみたら、とにかくやっかいな土地、それが紀伊国でした。

 徳川以前の中世の紀伊国は、「宗教王国」とも呼ばれていました。戦国時代のおわりに日本を訪れ、日本のことをたくさん著述している有名なポルトガル人宣教師であるルイス・フロイスは、紀伊国を次のように語っています。「堺の付近を和泉国と称するが、その彼方には国を挙げて悪魔に対する崇拝と信心に専念している紀伊国なる別の一国が続いている。そこには、宗教団体が四つ五つあり、そのおのおのが大いなる共和国的存在で、いかなる戦争によっても滅ぼすことができなかったのみか、ますます大勢の巡礼が絶えずその地に参詣したいた。〈 中略 〉 一つをコウヤ(高野)と言い、三千ないし四千の僧侶を擁している。その宗祖は弘法大師で、彼は七百年前、そこに生きたままで埋葬されることを命じた。同宗派はシンゴンジュ(真言宗)と称し、この高野の宗団は、頂上に大いなる平地と自分たちの憩いの場を持つ高山にある。毎年大勢の参詣者や巡礼が訪れるが、いかなる女性もそこに登ることは許されないし、また女性に関連した物品も持ち入ることができない。そのために、周知のように、同所の仏僧達は忌むべき輩であり、その生活は淫猥を極めたものとなっている。二番目の宗団はコカワ(粉河)と呼ばれる。それは前者に比すると人員や規模においてはるかに劣るので、改めて特筆する価値はなく割愛することにする。三番目の宗派ないし宗団は、やはり一部の仏僧が構成するものであり、ネゴロス(根来衆)と称する。彼らは当初、高野の仏僧らと同一の宗団に属していたが、後に分離して独自の宗派を形成するに至った。これらの仏僧たちは、日本の全ての宗派とは全く異なった注目すべき点をいくつか有している。すなわち彼らの本務は不断に軍事訓練にいそしむ事であり、宗団の規則は、毎日一本の矢を作ることを命じ、多く作った者ほど多くの功徳を積んだ者と見なされた。彼らは絹のキモンイス(着物)を着用して世俗の兵士のように振る舞い、裕福であり収入が多いので立派な金飾りの両刀を差して歩行した。カタギン(肩衣)を着物の上に纏っていない点を除くと、その服装は他の俗人と異なる所がなかった。それについては、既に日本人の服装を論じた際に言及した通りであり、彼らの衣服は飾り用に羽織る
一種の薄いサンペニート(袋状の衣)である。更に彼らはナザレ人のように頭髪を長く背中の半ばまで絡めて垂れ下げ、いかなる事があっても僧帽を着用しなかった。彼らを一瞥しただけで、その不遜な面構えといい、得体のしれぬ人柄といい、彼らが使えている主(すなわち悪魔が如何なるものであるか)を示していた。都に隣接した諸国に住む日本の武将や諸侯は、互いに交戦する時ゲルマン人のようにこれらの僧侶を傭兵として金で雇って戦わせた。彼らは軍事に極めて熟達しており、とりわけ鉄砲と弓矢にかけては日頃不断の訓練を重ねていた。そして戦場においては自分たちに有利な条件を提示する側に容易に屈するのであった。彼らの寺院なり屋敷は、日本の仏僧の寺院中、極めて清潔で黄金に包まれ絢爛豪華な点において抜群に優れている。そしてその寺院なり住居が清潔であればあるほど、一方で彼らは生活において忌むべき人間に堕落しているのである。彼らは根来の宗団内にとどまって戦に参加していない時には、他の仏僧らと同様に偶像崇拝並びにその宗派の儀式に従っていた。彼らはその地を訪れる巡礼者たちを懇切丁寧にもてなし、2,3日無料で食事を提供した。彼らに奉仕する家僕を除き、仏僧だけで八千人から一万人もいたが、それらの家僕の大部分は下賤の出で、主人の元から逃亡した下僕とか、悪人、また下等な輩の寄り合いであった。だか彼らはひとたびネゴロス(根来衆)になると、たちまち尊敬を受け、血統の賤しさも、以前の生活や習慣における卑劣さももはや己が身に汚点を残さなくなると信じていた。四番目の宗団の人々がいる地方は、サイカ(雜賀)と呼ばれ、その住人たちは、ヨーロッパ風にいえばいわば裕福な農民たちであった。だかヨーロッパの農民たちと全く同じというわけではない。すなわち彼らは海陸両面での軍事訓練において、根来衆にいささかも劣らなかったし、常に戦場で勇敢な働きぶりを示してきたので、日本において、彼らは勇猛にして好戦的であるとの名声を博していた。彼らは僧籍を有せず、全て一向宗の信徒であり、かつて大阪の市および城の君主であった仏僧(本願寺顕如)を最高の主君に仰ぎ、彼に従っていた。織田信長は6年にわたって顕如を包囲したが、しばしばこの大阪勢には悩まされ、信長勢は彼らの攻撃を受けた。当時、この僧侶を最も支えたのは、彼が常時手元においている6,7千人もの雑賀の兵であった。彼らは自ら奉ずる宗教への信心並びに熱意から、不断に大阪の城に馳せ参じ、自費を以って衣食を賄うとともに、海陸の戦いでは武器弾薬を補給した。」

 高野山・粉河寺・根来衆・雜賀衆が取り上げられている。特に、根来衆と雜賀衆は深く、しかもフロイスから見ると理解しがたく驚嘆のまなざしで分析しているように思われる。この寺そのものではなく、寺と関係のあるその取り巻き衆の力(兵力・実力)に大いに注目しているようだ。その他にも、紀南には「熊野三山」があり、まさに紀伊国は「宗教王国」だったのです。あるときは互いに独立し、あるときは戦い、またあるときは協力し合い権力者に対抗してきたのです。これが、我ら和歌山の元々の姿だったのかもしれません。良いのか、悪いのかではなくそんな時代が紀伊国にはあったことは確かなのです。ぼくは、非常に興味を覚えてなりません。紀伊国の中世を中心に我が故郷を掘り下げてみたいと思っています。

 


     新義真言宗根来寺と真言宗金剛峯寺(根来と高野)

 根来寺、南大門。往時の根来の勢力を彷彿させる建造物です。もう一つは、大師堂と多宝塔。山内で唯一秀吉軍の猛攻からその戦火を逃れた当時の建造物です。多宝塔には、その時の戦いの弾痕跡がたくさん残っています。最盛期、72万石と言われ何千もの建物がひしめき合い、谷という谷を埋め尽くしていたと言います。そこに何万もの僧兵(行人)達が

戦いに備え暮らしていました。   

覚鑁(かくばん)(興教大師)

 空海以来の天才と言われ、鳥羽上皇の庇護もあって高野山で若くして座主の座に着く。その頃腐敗していた高野山の改革を図り、大伝法院を復活。しかし、山内のそれまでの勢力の反発に遭い、弟子とともに高野山を追われ根来寺を拠点とする。

 

津田監物(監物)

 本名は、津田算長(かずなが・さんちょう)。戦国期後期の地侍。吐前城主で、根来寺山内の杉の坊に一族を僧侶として送り。根来寺山内で強大な力を持つ。根来僧兵の長。種子島に渡り、領主の種子島時尭(ときあき)から鉄砲一丁を買う。根来の鉄砲鍛冶である芝辻清右衛門に鉄砲の複製を作らせ、1545年紀州一号を完成。ここに根来・雜賀の鉄砲軍団が誕生していく。なお、芝辻は後に堺に移り住み、そのことが、堺も鉄砲の一大産地となっていく。      

 金剛峯寺。空海が開いた真言宗の本山で、高野山全体の寺院は、すべて金剛峯寺だったのです。信長には敵対していましたが、秀吉には臣従して戦火にあわずに残りました。同じ真言宗の根来寺とは逆の運命と言えます。その陰に、高野山にいた「木食応其」の活躍があったといいます。秀吉は「高野の応其にあらず、応其の高野」とまで言ったと言います。

空海(弘法大師・御大師さん)

 天才という言葉がぴったりの人物でしょう。短期間で密教の世界No.1の資格を、恵果和尚から一子相伝のごとく伝授され、日本の戻った。嵯峨天皇の崇敬を受け、東寺・金剛峯寺をはじめ東大寺・神護寺などの有名なお寺の頂点に立つ。日本における真言密教の開祖である。天才故、空海の教えは完成されたもので、空海以降その教えを超える人は出ていない。あるいは、もし出そうになったときは、周りがそれを阻止するかのように排除される。覚鑁がその代表であろう。