不思議な伝説(伝承)

伝説

   名草戸畔(なぐさとべ)

       『日本書紀』第3巻「神武天皇」の項

     「六月(みなづき)の乙未(きのとのひつじ)の朔丁巳(ついたちひのとのみのひ)に、軍(みいくさ)、名草邑(なぐさのむら)に至る。     

      即ち名草戸畔(なぐさとべ)という者を誅(ころ)す。」

 

    名草戸畔に関する記述は、たったこれだけ。神武軍が九州方面から倭(やまと)をめざし進軍中、当時和歌山

  の地域の女族長であった、名草戸畔とはどういう人物だったのだろう。卑弥呼のように神の声を聞き名草の人々を

  統治していたのだろうか。あまりにも史料が残っていない。

 

伝説1

 「淡嶋神社」(「ヒナまつり」発祥の地」)

 淡嶋神社社伝より

むかし、神功皇后が朝鮮遠征からの帰り、すごい嵐に遭いました。もうだめだと思ったその時、スクナヒコナの神が現れ神に導かれ無事に島に流れ着いたという。皇后は、神に感謝し、スクナヒコナの形代(人がた)をつくりお祀りした。のち、皇后の孫の仁徳天皇が三月三日に人がたを移し、祖母の神功皇后と合わせてお祀りした。その場所が淡嶋神社なのです。人がたを祀る祭りを「ヒコナ祭り」と呼び、簡略化して「ヒナ祭り」と呼ぶようになったという。

 

 

 

 

伝説2

 慈尊院の案内犬「ゴン」

 これは、伝説として紹介していますが、実は最近あった事実です。慈尊院にはお寺なのに狛犬があります。伝説では、空海が山で迷っている所に、狩場明神が猟師の姿で現れ、つれていた猟犬二匹に空海を高野山まで案内させたとあります。それ故、狛犬が慈尊院にあるのです。慈尊院は空海の母がいた寺、女人禁制で母とはいえ山に立ち入ることが出来ず、ふもとの慈尊院におったそうです。女人高野とよばれ、女性の高野山ともよばれていました。

 しかし、ゴンはそんな遠い昔の犬ではないのです。1989年(平成元年)に、野良犬の白い紀州犬がどこからともなく慈尊院に現れたといいます。そして、いつしか慈尊院から高野山の奥の院(空海が今もおられるという所)まで、参拝者を案内したといいます。ゴンと名付けられた白い紀州犬は、約24キロメートルの長い道のりを参拝者の50m先を行き、ときどき振り返って参拝者のペースにあわせながら歩いて行きました。奥の院に着くと、ゴンはそのまま道を戻っていったのです。慈尊院の住職(実はそれまで犬が苦手)は、ゴンを飼い犬として寺に迎え入れました。それから7年、1995年(平成7年)まで案内犬として、参拝者に付き添い続けました。ゴンの不思議な点、①多くの参拝者の中から徒歩で高野山に登る人を見分けることが出来たこと。②案内中に、決して食べ物を口にしなかった。(その姿は、食べ物をもらうために案内しているのではないと意思表示をしているように見えたという。)③ゴンは、2002年(平成14年)6月5日に推定27歳で亡くなった。5日は、慈尊院の毎月の縁日の日であり、さらに存命中の2000年6月5日に、二代目案内犬のカイがどこからともなく寺にやってきた。④何よりも、24㎞も離れた奥の院まで参拝者を案内したこと。伝説としかいいようのない本当の話です。住職は、ゴンが亡くなると、感謝の意でゴンの石像を建て、現在慈尊院の境内で弘法大師像の隣で、「ゴンの碑」として参拝者を温かく見守り続けています。

伝説3

 闘鶏神社(鶏で一族の命運を決めた)

 闘鶏神社は、田辺市にある神社です。かつては、熊野三山のすべての神を祀る熊野の別宮的存在であったといわれています。中辺路と大辺路の分岐点にあり、ここからの道中が大変であったので、熊野三山へ行かずにここをお参りして済ませたという人々もかなりいたそうです。源平合戦の折、熊野水軍の命運をかけ、どちらに味方するかみんなで話し合ってもいっこうに決まらず、神に伺いをたてることになった。そこで鶏を赤・白にわけて戦わせるとすべて白の鶏の勝ちとなりました。白は源氏の旗印。神は源氏に味方しろということだと判断し、源氏のために水軍を出して壇ノ浦の戦いで勝利したと言われています。そのことからこの神社を闘鶏神社と呼ぶようになったそうです。ちなみに、このときの熊野の大将は、田辺別当の「湛増(たんぞう)」です。湛増は、言い伝えではあの「弁慶」の父親であったという伝承もあるのです。